「『一代限り』というのは、国民の大方の意見に反する」(昨年12月28日)という社説を見て、朝日新聞もだいぶ変わってきたなと感じていました。政府が各党の意見の調整をしていくという報道を読んでも、ゴー宣道場がそこへの気付きを訴えてきた「天皇の御意のままに」という国民の底からの声が無視できなくなり、以前のような「生前退位自体を認めるか、否か」という段階から少し進んだ印象を受けていました。
上記の朝日社説では、かつて同じ社説欄で有識者会議に先立ち「皇室典範を改正して制度化するのが筋だが、特別立法も一概に否定できない」と主張したことが振り返られています。
その上で、典範改正に反対意見があることを挙げ、議論が暗礁に乗り上げれば天皇のあり方という提起された重要な問題がうやむやになりかねないと思ったがゆえの「まずは特別法で手当てをし、引き続き典範改正に取り組む」という意見だったと釈明。
いずれにせよ問題なのは「一代限り」と決めてしまう有識者会議の大方の考え方だと述べています。
しかし先日23日の道場ブログでの倉持師範の文章を読んで、「●年以内に皇室典範の改正をする」という趣旨の「附則」を入れ込んだ形の特例法を制定したとしても、そこには約束を破った時の罰則は存在せず、事実上なんの意味もない、それ自体「まやかし」だということがわかりました。
ひょっとしたら上記の朝日の社説自体、安倍政権に目配せした出来レース、「まやかしの論争」だったのかとすら思えてきました。
国民は、二重三重のまやかしに気付かなければならないのだなと。
倉持師範のブログでは安保国会成立時における国会内の紛糾が取り上げられ、実際には存在しない議事録がデッチ挙げられても、それについての禁止する法律が存在しないということが述べられています。
それを読んで、私が思い出したのは、先日の安倍首相の施政方針演説です。
「ただ批判に明け暮れたり、言論の府である国会の中でプラカードを掲げても、何も生まれません」
この発言に関して、異議の内容ではなく、申し立てのスタイルそれ自体を否定するのはふさわしくないという批判が出て、政府も不適切だったと認めました。
しかし、安倍首相からすれば、そもそも国会自体が実質治外法権で、議論が成立したという「まやかし」を後世に残して足れりとするための手段だとしたら……と考えると余計に恐ろしくなります。
いや「恐ろしくなります」なんていう、ホラー映画の観客みたいなことをいまさら言っていてもしょうがない。そのぐらいのことはあるんだという認識を国民は持って「いまの議論はまやかしの議論なのか」を見極めていくことが必要なのだと思いました。